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武田砂鉄 ラジオマガジン · 社会/文化

難波優輝(『アンチ・スポーツの哲学』著者)(2026年9月23日放送分)

2026-09-23 · 33分 · 3分で読める

美学者の難波優輝が新著『アンチ・スポーツの哲学』(朝日新書)を引き合いに、「スポーツとはすごいやつを決める営みだ」というシンプルな定義から出発し、スポーツが学校教育・道徳・自己啓発・ナショナリズムと結びついてきた経緯を解体する。筋肉的キリスト教(Muscular Christianity)から戦後日本のアスリート礼賛まで、スポーツを「当たり前」とする社会通念を哲学的に問い直す。武田砂鉄との対話形式で、聴取者への問いかけが随所に散りばめられている。

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この回が答えていること

  • スポーツを「すごいやつを決める営み」と定義することで、何が見えてくるのか?

    スポーツは音楽や映画と違い、評価に反論できない点が際立つ。金メダルを取った選手に『金メダルじゃない』とは言えず、すごさを客観的・完全に確定させる、その純粋すぎる単純さがスポーツ固有の奇妙な魅力になっている。

  • スポーツはなぜ学校教育に組み込まれ、なぜ本質的に相性が悪いのか?

    「筋肉的キリスト教」という運動・競争で若者を引きつける発想がYMCA経由で学校教育に流入したのが経緯。だがテストの順位公表は問題視されるのに体育の勝敗は許容される非対称があり、本質的に相性が悪い。

  • 「失敗から学べる」という通念はなぜ間違いで、どう考え直すべきか?

    難波は経験上嘘だと断言する。人は小さな成功を積み重ねてこそ学ぶのであり、いきなり難易度を上げて失敗させても萎縮して撤退するだけなので、成功体験の積み重ねとして学びを捉え直すべきだ。

  • アイドルオーディション番組やAKBの総選挙は、スポーツとどのように重なるのか?

    どちらも「誰が一番か」を数で決める点でスポーツと同型であり、スポーツ・民主主義・哲学は同時期に始まったという議論同様、数の多さで一番人気を決める論理は資本主義的な量の論理とも共鳴している。

  • 日本でアスリートが「夢を背負わされる」のはなぜで、その構造はどこから来るのか?

    1964年東京五輪で三島由紀夫ら文学者が選手の若さや力に戦後復興の象徴を見出した構造が源流。誰かがすごい存在になる過程を応援すれば自分たちの未来も明るくなるという想像が日本社会に根強いためだ。

美学者がスポーツに「なんで?」と思った理由

難波優輝は1994年生まれ、立命館大学客員研究員で、分析美学とポピュラーカルチャーの哲学を専門とする美学者だ。水泳部出身ながら卒業後は楽器を続け、競争とは距離を置く「文化系」として生きてきた。そんな彼がスポーツに向き合ったきっかけは、職場で「WBCすごかった」と盛り上がる同僚たちへの純粋な「知らん」という感覚だった。競馬が好きというスポーツへの入口は持ちながら、なぜこれほど大金がかけられ、なぜ人々はスポーツに熱狂するのか――その問いを美学の視点から解くべく書いたのが『アンチ・スポーツの哲学』(朝日新書)である。帯には「競争・成長・感動・ナショナリズムを疑う」と書かれている。

「すごいやつを決める」というシンプルな定義

難波はスポーツを「すごいやつを決める営み」と定義する。他の研究者から「スポーツは卓越性を図るものだ」と言われることもあるが、それを平たく言えば要するに同じことだと直感した。この定義の妙は、音楽や映画と比較すると際立つ。「この映画が最高」という評価は反論可能だが、金メダルを取った選手に「金メダルじゃないよね」とは言えない。スポーツだけが「すごさ」を客観的・完全に確定させる。その純粋すぎる単純さが、スポーツ固有の奇妙な魅力でもある。

本書の冒頭では、試合後に「強敵相手に全力を尽くせて満足」と語る選手のコメントに「冗談じゃない、勝負で語ってほしい」と喝破した言葉や、「相手の怪我を攻めるのが相手への本当の優しさ」と語った選手の発言が引かれる。道徳的に見れば倒錯しているが、それがスポーツの論理の内側では正当だという異様さを難波は指摘する。スポーツが「普通の日常道徳から乖離していく」あやうさこそが、同時にスポーツの魅力の源泉でもあると見る。

スポーツと教育はなぜ相性が悪いのか

スポーツが学校体育に組み込まれた経緯には「筋肉的キリスト教(Muscular Christianity)」という歴史的背景がある。かつてキリスト教が若者を引き付けられなくなった時代に、「運動・競争を取り入れれば魅力的な教会になれる」という発想が生まれ、YMCAを経て学校教育に流入した。日本にも伝播したこの流れにより、学校でスポーツをさせることが「当たり前」になったが、難波はここに根本的な矛盾を見る。テストの順位を張り出すことは問題視されるのに、体育で勝ち負けを決めることは許容される。この非対称は、よく考えると奇妙だ。

さらに難波は「失敗から学べる」という通念も批判する。教育学者のアルフィー・コーンが「失敗主義」と呼ぶこの発想について、難波は「経験上、嘘だと思う」と断言する。人は小さな成功を積み重ねてこそ学ぶのであり、いきなり難易度を上げて失敗させても萎縮して撤退するだけだ、と。スポーツが毎回明確な勝敗を突きつける構造は、その意味でも教育と相性が悪い。もし人類の歴史をガラガラポンと回し直したら、学校ではスポーツではなくゲームプレイを教える世界もあり得た、と難波は言う。

スポーツ化する文化とアスリートに夢を背負わせる社会

難波は文化全体の「スポーツ化」も指摘する。AKBの総選挙も、近年急増するアイドルオーディション番組も、「誰が一番か」を数で決める点でスポーツと同型だ。ある女性哲学者の言葉として、スポーツ・民主主義・哲学は同時期に始まったという議論も紹介される。「数が多い方が一番人気→だからここで決まり」という論理は、資本主義的な量の論理とも共鳴している。

第4章「アスリートはなぜ夢を背負わされるのか」では、戦後日本の文脈が掘り下げられる。1964年の東京オリンピックに際し、三島由紀夫をはじめ多くの文学者が競技場に足を運び、アスリートの若さや力に戦後復興の象徴を見出した。その構造は、東日本大震災後の復興をNHKドラマ「あまちゃん」のようなアイドルに重ねる視線とも地続きだと難波は言う。「誰かがすごい存在になっていく過程を応援することで、自分たちの未来が明るくなる」という想像が日本社会には根強い。サッカー日本代表の長谷部誠が『心を整える』を出してビジネスパーソンに読まれる現象も、スポーツ選手が「人間の能力の理想」と見なされている証左として取り上げられた。

この回の要点

  • スポーツの本質は「すごいやつを決める」ことであり、美徳や人格形成はオプションに過ぎない。スポーツと道徳を結びつけてきた「スポーツは人格を育てる」論は根拠が薄い。
  • スポーツが学校体育に入り込んだのは筋肉的キリスト教という歴史的偶然であり、「失敗から学ぶ」も疑わしい。小さな成功の積み重ねこそが教育的で、スポーツの勝敗構造とは本来食い合わせが悪い。
  • アイドル総選挙から戦後の東京五輪まで、日本社会は「誰かをすごい存在にして象徴に祭り上げる」ことで未来への希望を共有してきた。スポーツ化と資本主義的な量の論理は深く共鳴している。

スポーツ哲学アンチスポーツの哲学教育批判ナショナリズム美学

この記事は、配信音声の冒頭30分ぶんを機械で文字起こしし、それをもとに編集したものです。番組の公式な要約ではありません。正確な内容は本編をお聴きください。