# なぜあだ名をつけるのか? - Show: ペーパードライブ【読書・哲学】 - Published: 2026-10-06 - Canonical: https://podc.club/episode/1806987009_909c800c4b72.html - Audio: https://pdst.fm/e/pscrb.fm/rss/p/traffic.megaphone.fm/TBS4640722014.mp3 - Source: この記事は、配信音声の冒頭30分ぶんを機械で文字起こしし、それをもとに編集したものです。番組の公式な要約ではありません。 あだ名はなぜ存在し、なぜ自分から名乗ると「寒い」のか。長井玲・西川彩乃・大島康幸の3人が、「名前は与えられるもの・呼び名は他者が決めるもの」という非対称性を軸に、あだ名の親密・弱体化・抵抗・創作といった複数の機能を掘り下げた。コンビニ店員の陰あだ名、ハラッサーへの抵抗としてのあだ名、千と千尋のユバーバ、長井が哲学対話で用いる「この場限りの名前」まで、具体例が豊富な30分。 ## この回が答えていること ### なぜ自分からあだ名を提示するのは「寒い」と感じられるのか? 呼び名は本来「呼ぶ側」が決める自由に属する。自分から「○○と呼んでください」と言うことは、相手が「どう呼ぼうかな」と想像する楽しみを遮断し、呼ぶ側の自由を奪う行為だ。名前に加えてあだ名まで「3つも提出してくる」行為として嫌悪される、と長井が整理した。 ### あだ名には愛着と弱体化という相反する機能があるが、その違いはどこで生まれるのか? 本人が知っているか、そしてその特徴への認識が肯定的かどうかが分岐点になる。「YJ(ヤングジャンプ)」は本人の好きなものへの敬意だが、陰で使われれば弱体化になる。先生を教科名で呼ぶケースは大島が「ガチいじめ」と断言した。 ### 長井玲が哲学対話の場で参加者に「この場限りの名前」を求める理由は何か? 「長井先生」と呼ばれると教師の役割ごと背負ってしまうため、役割から切り離した名前を使う。また抑圧・虐待・引きこもりを経験した参加者にとって、自分で名前を選ぶことが「初めての自己決定」になりうるから、と長井は説明した。 ### あだ名を付けた瞬間の高揚感はどこから来るのか? 長井がナナちゃんに「セブン」とあだ名をつけてクラスが盛り上がった体験を「初めての創作表現に近い」と表現した。名付けは人の何かを変形させる権力行為であり、それが上手くはまった瞬間の全能感・高揚感が創作の喜びと重なる。 ### 大人になるとあだ名が減るのはなぜか? 中学→高校、大学→社会人の移行があだ名のターニングポイントで、コミュニティが変わるたびにあだ名はリセットされやすい。大人になっても自分からあだ名を提示し続ける人は「新しい呪いをつけられたくない」という自己防衛と恐怖心の裏返しだと語られた。 ## 本文 ## あだ名を自ら名乗る「寒さ」の正体 長井玲・西川彩乃・大島康幸の3人は冒頭から、ラジオ番組の初回に「リスナーの呼び方を決めよう」とする文化への反発を共有した。西川は「何年も続いた番組でリスナーが自然発生的に呼び始めたなら分かるが、初回に自ら提案するのはチープ」と断言し、提案するスタッフを「能力が低い」とまで言い切った。 その感覚の根拠を長井が理論化する。「名前は与えられるもの。しかし呼び名は他者が決めるもの」。だから自分から「○○と呼んでください」と言うことは、相手が「どう呼ぼうかな」と想像する自由を奪う行為になる。大島が「名前・苗字・あだ名と3つも提出してくる」と表現したのと同じ違和感だ。 バービーさんと夫・ツータンの例は好対照だ。初対面で「あなたはツータン、私はカータン」と2人が同時にあだ名に入ったエピソードについて、「対等にエントリーしているから嫌な感じがしない」と評された。双方が同時に親密な世界に踏み込む対称性が鍵だという。 ## あだ名の二面性——愛着と弱体化 あだ名には真逆の機能がある。コンビニ店員が常連客を陰で「チーカマ」と呼ぶのは、単調な仕事に規則性を見出して日常を楽しくするユーモアでもあり、同時に本人を「支配下に収める」行為でもある。大島は「退屈が緩和される」という肯定面を認めながらも、陰で使われることの問題も指摘した。 高校で「YJ(ヤングジャンプ)」と呼ばれていた人は、毎週ヤングジャンプを買ってきてクラスに貸す習慣があり、その特徴が肯定的に認識されていたため呼ばれても嫌な気持ちにはならない。しかし同じあだ名でも陰で使われると「悪口寄り」になる。分岐点は「本人が知っているか」「その特徴への敬意があるか」だ。 対極の例が、ある科目の先生を担当教科名で呼ぶケース。存在感が薄い先生をさらに弱体化させているとして、大島は「ガチいじめ」と断言した。一方、桃山商事・清田さんのコラムで紹介された「ハラッサーに陰であだ名をつけて抵抗する」文化は、弱体化を意図的な武器として使う例として取り上げられ、名付けが抵抗の道具にもなることが示された。 ## 長井玲の哲学対話と「この場限りの名前」 長井は哲学対話の場を開く際、「呼んでほしい名前」ではなく「この場限りの名前」を参加者に求める実践を紹介した。理由は2つある。ひとつは「長井先生」のように普段の役割を背負わずに済む名前にするため。もうひとつは、抑圧・虐待・引きこもりを経験した参加者にとって、名前を自分で決めることが「初めての自己決定」になりうるから。 参加者からは「今朝洗車してきたから洗車」「新しいスニーカーが欲しいからスニーカー」のように、その瞬間の偶然から名前が生まれることが多い。これは伝統的なあだ名とは異なる「一回性の名前」であり、その人らしさよりも偶然性を楽しむものだと長井は区別する。性自認に違和がある人が、あだ名を通じて名前を付け直す「大事な儀式」としても機能すると語られた。 ## 名付けという創作行為と継承 長井がナナちゃんに「セブン」というあだ名をつけてクラスが盛り上がった体験を、「あだ名をつけた瞬間の全能感・高揚感は初めての創作表現に近い」と表現した。有吉弘行のあだ名ゲーが評価されるのも、千と千尋のユバーバが千尋の名前を奪って「千」にするシーンが印象的なのも、名付けが権力行為かつ創作行為だからだと3人は読む。 「風の谷のナウシカ」を「風のタウシカ」と言い間違えた人がその後ずっと「タウシカ」と呼ばれ続け、由来を知らない人にも継承されていくエピソードも登場した。あだ名が独り歩きして文化になるプロセスの好例だ。また渡辺→ナベ・ナベヤン、山口→山ちゃん・グッチのように、名字に由来するベタなあだ名が全国規模で発生する現象も、名付けの自然発生的な力として取り上げられた。 ## 大人になるとあだ名が減る理由 中学から高校、大学から社会人への移行があだ名の「ターニングポイント」だと3人は一致した。コミュニティが変わるたびにあだ名はリセットされやすい。大島のコンビ「チョメチョメクラブ」由来の「チョメ島」という呼び名は、爆笑問題・太田さんが命名し、タイタン事務所内では定着しているが、コンビを知らない現場では呼ばれない——それが自然な姿だという。 逆に大人になっても自分からあだ名を提示し続ける人は、かつて与えられたあだ名の「呪い」を手放せない自己防衛の表れと解釈された。「新しい呪いをつけられたくないから自分で決めてしまう」「敬語をやめるタイミングも自ら指定してくる人と同じ心理」——他者からの見られ方をコントロールしたい恐怖心の現れでもある、と長井は語った。 ## この回の要点 - 呼び名は「呼ぶ側」が決めるもの。自分からあだ名を提示することは相手の想像の自由を奪う行為であり、それが「寒い」と感じられる正体だ。 - あだ名の愛着と弱体化の分岐点は「本人が知っているか」と「特徴への肯定的な認識があるか」。同じあだ名でも文脈で意味は正反対になる。 - 名付けは創作行為かつ権力行為。コミュニティ内で変形・継承しながら独り歩きし、大人になって減るのはコミュニティの刷新によるリセットが原因だ。