# #200「山田浅右衛門」 - Show: あんまり役に立たない日本史 - Published: 2026-10-09 - Canonical: https://podc.club/episode/1652596456_268d1d52866c.html - Audio: https://traffic.megaphone.fm/TRE9659213932.mp3 - Source: この記事は、配信音声の冒頭30分ぶんを機械で文字起こしし、それをもとに編集したものです。番組の公式な要約ではありません。 江戸時代に「首切り浅衛門」と呼ばれた山田浅衛門は、9代にわたって2400人以上の首を切った処刑人一族だ。しかしその実態は、幕府公認の刀の試し斬り師であり、死体から薬を製造する実業家でもあった。首切りはあくまで「死体の仕入れ」に過ぎなかったという驚きの真相を、江戸の刑罰制度とともに解説する。 ## この回が答えていること ### 江戸時代にはどのような刑罰があったのか? 軽い順に、叱り・急度叱り・手鎖(30〜100日)・叩き・入れ墨・島流し・江戸払いがあり、最重は死罪。死罪にも磔・鋸引きなど段階があり、打首獄門は首を晒して恥辱を与えるものだった。恥を何よりも重視する当時の価値観が刑罰全体に反映されていた。 ### 山田浅衛門が首切りに必要とした技術とはどんなものだったか? 第3頸椎と第4頸椎の隙間(わずか4〜6mm)を正確に狙う必要があった。恐怖で震える罪人を相手に、一刀で仕留めるのが作法とされ、2回失敗すると3回目は胸を突いて絶命させるしかなく、三振は剣士の恥とみなされた。 ### 山田浅衛門はなぜ無償どころかお礼までして首切りを引き受けていたのか? 首切りを引き受ければ死体が手に入り、それを本業である刀の試し斬りの素材にできたから。刀の研ぎ代(約5万円相当)を同心に丸ごと渡し、付け届けまでして首切りの仕事を多く回してもらっていた。 ### 刀の試し斬りとはどのような仕事だったか? 幕府公認の「お試し御用」として死罪人の死体を土壇に重ね、何人分切れるかで刀の切れ味を評価した。最高記録は「七つ胴落とし金房」で、7人分の胴体を重ねて切れたとされる。大名や旗本から次々と依頼が来た。 ### 山田浅衛門はどのようにして大名並みの財力を築いたのか? 刀の試し斬り料に加え、使い終わった死体から江戸時代に薬効があると信じられた内臓を原料にした薬を製造・販売し大ヒット。刀の鑑定書の出版も収入源で、浪人の身分ながら3万〜4万石の大名に匹敵する経済力を持った。 ## 本文 ## 江戸時代のバラエティ豊かな刑罰 江戸時代の刑罰は軽重に応じて細かく段階が設けられていた。最も軽いのは「叱り」で、役人が公の場で罪人を怒るというもの。現代人には物足りなく映るが、公衆の面前での恥辱を何よりも重く受け止めた当時の価値観では、立派な制裁だった。 罪が重くなると「急度叱り(きっとしかり)」、手に枷をはめたまま30〜100日を過ごす「手鎖」、加減しながら体を叩く「叩き」と続く。「入れ墨」は地域によって異なり、現在の広島県周辺では1回目の犯罪でおでこに横棒(漢数字の一)、2回目はナの字形、3回目はさらに一画増えて「犬」の文字が刻まれた。大よりも犬の方が格好悪いという侮辱の意味が込められていたとされる。 さらに重くなると「島流し」「江戸払い」で生活基盤を奪われ、最重は死罪。磔にして槍で刺し3日放置、土に埋めて首だけ出し通行人にノコギリで少しずつ引かせる「鋸引き」(実際には引く人が集まらずほぼ行われなかった)、そして「打首獄門」は首を落とした上に晒し首にする二重の恥辱だった。 ## 首切り処刑人・山田浅衛門の卓越した技術 山田浅衛門は9代にわたって名を継いだ一族で、記録に残るだけで合計2400人以上の首を切った。1代あたりでも200〜300人に上る計算だ。 首切りが特殊技能とされた理由は解剖学的にある。頭を支える首の骨は非常に丈夫で、刀が骨に当たると切れない。第3頸椎と第4頸椎のわずか4〜6mmの隙間を一発で狙い抜かなければならない。しかも罪人は恐怖で震えて動くため、難易度は極めて高かった。 作法として2回の失敗は許されたが(「野球の2ストライク」と番組内で例えられる)、3回目は首ではなく胸を突いて絶命させるしかなく、それは剣の未熟さの証として深く恥じられた。浅衛門の訓練法は畳2枚を立てて並べ、その継ぎ目(数mm幅)に刀が通るようひたすら素振りをするというものだった。 本来この仕事は同心(幕府下級役人)の担当だが、プレッシャーが大きく誰もやりたがらなかった。そこに浅衛門が代打として登場し、喜んで引き受けた。 ## 首切りは「仕入れ」に過ぎなかった 浅衛門が無償どころかお礼まで払って首切りを引き受けた理由は、本業にある。山田浅衛門家のメインの仕事は幕府公認の「お試し御用」、すなわち刀の試し斬りだった。 太平の世では実戦がないため刀の切れ味を測れない。そこで死罪人の死体を活用した。斬首台である「土壇」に死体を何体も重ね、何人分切れたかで評価する。ちなみに「土壇場」という言葉はここから生まれた。最高記録として残るのは「七つ胴落とし金房」という刀で、7人分の胴体を一刀で断ったとされる。 つまり首切りは試し斬り用の死体を確保するための「仕入れ作業」だった。刀の研ぎ代として幕府が支払う金二分(現在の価値で約5万円)を受け取らず同心に渡し、さらに付け届けまでして仕事を多く回してもらっていた。 大名や旗本から試し斬りの依頼が殺到して死体が不足すると、一度使った死体を縫い合わせて再利用した。 ## 薬の製造が最大の収入源 試し斬りの後、死体はもう一つの用途に使われた。江戸時代には人間の内臓に薬効があると広く信じられており、浅衛門は死体から薬を製造・販売していた。この薬が大評判となり飛ぶように売れた。買う人が大勢いたということは、当時の人々にとってそれが病気を治すありがたい薬だったわけだ。 こうした複数の収益源により、浪人(フリーの武士)という身分にもかかわらず、浅衛門の経済力は3万〜4万石の大名に匹敵したと伝わる。刀の鑑定経験を活かした刀カタログの出版も収入の一つだった。 ## 死者への敬意と時代の終わり 浅衛門は稼いだ金で処刑された罪人たちの慰霊塔「元取塚」を建立し、死者への敬意を示した。その誠実な仕事ぶりと確かな技術は罪人からも信頼を集め、明治時代に斬首刑が廃止される際には、死刑囚の中に「どうせなら山田浅衛門に首を落としてもらいたい」とリクエストする者までいたという。恐怖の処刑人ではなく、誰よりも死者を大切にした職人として記憶されている。 ## この回の要点 - 山田浅衛門は9代にわたる一族で2400人以上の首を切ったが、それは刀の試し斬り用の死体を仕入れるための「副業」に過ぎなかった - 首切りには第3・第4頸椎の4〜6mmの隙間を一刀で狙う高度な技術が必要で、浅衛門は畳の継ぎ目を狙う素振りで鍛錬を積んだ - 浅衛門の主な収入源は刀の試し斬り鑑定と死体由来の薬の製造販売で、浪人ながら大名並みの3〜4万石相当の財力を持った