#718【ガリレオ・ガリレイ】医者になるはずが数学者に?近代科学の礎を築いた青年の原点
医者になるよう父に命じられてピサ大学医学部に入ったガリレオ・ガリレイが、宮廷数学者の講義をきっかけに数学へ転向し、学位を取らずに中退する。25歳でピサ大学数学教授に抜擢されるも、父の死と契約打ち切りが重なり窮地に陥ったガリレオが、ヴェネツィア・パドヴァ大学からの好条件オファーで再起するまでの軌跡を辿る。
この回が答えていること
ガリレオはなぜ医学部を中退して数学の道に進んだのか?
宮廷に仕える数学者のユークリッド幾何学の講義に魅了されたから。当時の医学は古代の権威ある学者の言葉を暗記する学問が中心だったのに対し、数学は自分の頭で論理を組み立てる創造的な面白さがあり、ガリレオはそちらに強く引かれた。
ガリレオの父ヴィンチェンゾはどんな人物で、息子にどんな選択を求めたか?
ヴィンチェンゾは音楽理論家でリュート奏者。弦に付ける重りを変えて音の高さがどう変わるかを実験する人物だった。音楽では稼ぎにくいと知っていたため、息子には安定収入が見込める医者を強く望み、医学部に進学させた。
大聖堂でのランプの逸話とは何で、どこまでが史実とされているか?
19歳ごろ、大聖堂で吊り下げられたランプが揺れるのを見て、時計の代わりに自分の脈拍で揺れの周期を測ったとされる逸話。後に振り子の等時性の発見につながったと語られるが、ガリレオの弟子が書いた伝記の記述であり、史実かどうかは疑わしいと番組内でも言及されている。
ガリレオはなぜピサ大学の教授職を失い、その後どんな困難に直面したか?
1592年、ピサ大学での教授契約が更新されなかった。前年の1591年には父が亡くなり、長男として弟妹の生活費や妹たちの結婚費用まで負担しなければならない状況に陥っており、失職との二重苦を抱えた。
パドヴァ大学がガリレオにとって「人生で最良の時期」となった理由は何か?
ヴェネツィアはローマ教皇庁とも距離を置く独立志向の強い商人の国で、学問の自由な空気があったため。待遇もピサ時代より大幅に良く、ガリレオ自身がここでの18年間を「人生で最良の時期」と振り返ったと伝わっている。
音楽理論家の父と「医者になれ」という命令
1564年、イタリアのピサに生まれたガリレオ・ガリレイの父ヴィンチェンゾは、音楽理論家でリュート奏者だった。弦に付ける重りを変えて音の高さがどう変わるかを実験的に研究する人物で、現代のチューニング理論の礎を築いた先人の一人とも言える。しかし音楽で安定した収入を得るのは容易ではなく、父は息子に「稼げる仕事」として医者の道を望んだ。
ガリレオが10歳ごろ、一家はフィレンツェに移住。修道院の学校で学んだガリレオは一時期、修道士を志したとも言われる。しかし父はこれに反対して連れ戻した。理由はシンプルで「医者の方が稼げるから」。そして1581年、17歳でガリレオはピサ大学医学部に入学する。
宮廷数学者の講義との出会いと転向
医学部に在籍しながら、ガリレオは宮廷に仕える数学者によるユークリッド幾何学の講義を聴講し、強く魅了された。当時の医学は古代ギリシャの権威ある学者の言葉を暗記することが中心で、どちらかといえば文系的・暗記系の学問だった。それに対し、数学は自分の頭でパズルを組み立てるような創造的な学問。ガリレオはこちらの面白さに引き込まれ、次第に医学から離れていく。
10代の終わり、推定19歳ごろの出来事として有名な逸話がある。大聖堂でランプが揺れているのを目にしたガリレオが、当時まだ時計がなかったため自分の脈拍を使って揺れの周期を測ったというものだ。これが後の振り子の等時性の発見につながったとされる。ただし番組内でも触れられているように、これはガリレオの弟子が書いた伝記に記されたエピソードであり、史実としての信憑性は定かでない。
やがてガリレオは医学部の学位を取得しないまま大学を去る。父は当然怒ったが、ガリレオの才能を認めた数学者たちの説得もあり、最終的には認めたと伝わっている。
25歳での教授抜擢と経済的苦境
大学を去ったガリレオは家庭教師として生計を立てながら、アルキメデスの研究を独学で進めた。水中での物体の重さを測ることで金属の密度や含有量を調べられる精密な天秤を考案するなど、独自の研究成果を積み上げる。また落下運動の研究も行い、「重い物ほど速く落ちる」というアリストテレスの理論が思考実験において矛盾を含むことを導き出した。
1589年、25歳のときにガリレオはピサ大学の数学教授に異例の若さで抜擢される。しかし当時、数学は神学や医学よりも格下の学問とされており、給与は医学教授の何十分の一とも言われるほど低かった。
父の死・失職・そしてパドヴァへ
1591年、父ヴィンチェンゾが亡くなる。長男であるガリレオは、まだ30歳になっていない状態で弟妹の生活費と、妹たちの結婚費用まで背負うことになった。そして翌1592年、ピサ大学での教授契約が更新されず、職まで失ってしまう。お金に困りながら家族を養わなければならないという、20代後半の「苦学生」さながらの状況に追い込まれた。
そんな窮地に転機が訪れる。ヴェネツィアのパドヴァ大学から教授職のオファーが届いたのだ。待遇はピサ時代よりも格段に良かった。ヴェネツィアはローマ教皇庁とも距離を置く独立志向の強い商人の国で、学問の空気も自由だった。ガリレオはパドヴァへと向かい、後に「人生で最良の時期」と振り返ることになる18年間が幕を開ける。次回はこのパドヴァ時代の研究生活と私生活が語られる予定だ。
この回の要点
- ガリレオは医学部在籍中に宮廷数学者のユークリッド幾何学講義に魅了され、学位を取らずに中退して数学者の道へ転じた
- 25歳でピサ大学数学教授に抜擢されたが、数学は格下の学問で給与は医学教授の何十分の一という冷遇だった
- 父の死と契約打ち切りが重なる窮地から、自由な学問風土のパドヴァ大学の好条件オファーで再起した
この記事は、配信音声の冒頭30分ぶんを機械で文字起こしし、それをもとに編集したものです。番組の公式な要約ではありません。正確な内容は本編をお聴きください。