# 【67-9】備えあれば勝機あり!弘安の役で真価を見せるガッチガチな石壁【COTEN RADIO モンゴル帝国襲来編9】 - Show: 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO) - Published: 2026-10-15 - Canonical: https://podc.club/episode/1450522865_55cbc5af600f.html - Audio: https://anchor.fm/s/8c2088c/podcast/play/125576079/https%3A%2F%2Fd3ctxlq1ktw2nl.cloudfront.net%2Fstaging%2F2026-8-11%2F1a541365-038e-abd3-2380-357c952d5c1e.mp3 - Source: この記事は、配信音声の冒頭30分ぶんを機械で文字起こしし、それをもとに編集したものです。番組の公式な要約ではありません。 1281年の弘安の役で、日本が沿岸に築いた元寇防塁(石塁)とバリケードがモンゴル軍の上陸を阻み、2ヶ月に及ぶ博多湾の攻防が繰り広げられた。台風(神風)が決定打になったとされる通説と、台風後も東路軍と激戦が続いたとする新説(服部先生)を比較しながら、勝利の複合的な要因を整理する。竹崎季長が台風直後に追撃を志願して船を置き忘れるエピソードも紹介される。 ## この回が答えていること ### 元寇防塁(石塁)は弘安の役でどのように機能し、上陸を防いだのか? 高さ1丈3尺の石の壁が海岸線に沿って築かれ、波打ち際には逆茂木のバリケードも設置された。博多湾は浅瀬で大型戦艦が近づけない地形とあいまって、モンゴル軍は一気上陸ができず志賀島に退いた。 ### 博多湾での2ヶ月の攻防はどのように推移したか? 伊予水軍を中心とする武士団が鎖でつながれた元の船団に突入するなど激しく抵抗し、元軍を博多湾内に封じ込めた。元軍は江南軍の合流を待つため一旦壱岐に撤退した。 ### モンゴル軍の内部ではどんな対立が起きていたか? 洪茶丘が高麗出身でありながらモンゴル人のように振る舞い、讒言で金方慶を辱めた経緯から高麗人将兵の強い反感を買った。江南軍の范文虎も文永の役の敗将として信頼が薄く、統率力が全体的に欠如していた。 ### 台風(神風)をめぐる通説と服部先生の新説はどこが違うのか? 通説は台風でほぼ全軍が壊滅したとするが、新説では江南軍が高島付近で壊滅した一方、志賀島の東路軍は温存されており、台風後も2度の大激戦があったうえで日本が勝利したと主張する。 ### 台風後も戦いは続いたのか?竹崎季長はどんな行動をとったか? 台風から4日後に博多湾で掃討戦を行い、さらに高島の残存軍も撃破して勝利した。竹崎季長は追撃を志願したが、自分の船を博多湾に置いてきたことに気づき立ち往生するという一幕があった。 ## 本文 ## 元寇防塁が博多湾の上陸を阻んだ 1281年(文永の役から7年後)、モンゴル帝国は東路軍4万人を朝鮮の合浦から出発させた。5月3日出発の東路軍が博多湾に侵入したとき、兵士たちは海岸線に沿って延々と続く高さ1丈3尺の石の壁を目にした。元寇防塁である。壁の上には無数の旗が翻り、縦が隙間なく並べられ、波打ち際には逆茂木のバリケードが張り巡らされていた。 博多湾はもともと浅瀬で大型の戦艦が海岸近くまで入れない。上陸するには小船でのピストン輸送しかなく、そこへ防塁と逆茂木が加わったことで一気上陸は不可能だった。元軍は上陸を断念し、志賀島に退いた。 ## 博多湾での2ヶ月の攻防 日本の武士団は博多湾に浮かぶ元軍の船団に攻撃を仕掛けた。特に伊予水軍(現・愛媛県)の活躍が目立ったと伝わる。元軍は船同士を鎖でつなぎ合わせ、クロスボウで接近する小船に矢を浴びせてきたが、武士たちはその弾幕の中を突入し続けた。志賀島に上陸した元軍に対しても地元の武士団が攻撃を仕掛け、元軍を湾内に封じ込めることに成功した。 一方、江南軍(中国南部から来た軍)はまだ到着していなかった。元軍は壱岐まで全軍を退き、江南軍の合流を待った。そもそも江南軍の出発は6月18日と1ヶ月半遅く、中国南部からの長距離海上航行は海流や風任せで、船団がばらけて別々の地点に到着することもあった。多民族混成軍での意思疎通の困難さも加わり、集合地点の変更連絡すら容易ではなかった。 ## モンゴル軍の内部崩壊 元軍内部では深刻な亀裂が生じていた。東路軍の指揮官である忻都・洪茶丘・金方慶の三者が対立したのだ。洪茶丘は高麗出身でありながらモンゴル人として振る舞い、高麗人将兵から強い反感を買った。過去に金方慶を讒言して国王の前で恥辱を与えた経緯もあり、高麗兵は洪茶丘の指示に従おうとしなかった。江南軍の司令官・范文虎も、文永の役の敗将として南宋兵から「なんだあいつ」と思われており、軍全体にカリスマ的指導者が不在だった。疫病が発生し、撤退論を唱える将軍も出始めた。 ## 台風(神風)の実態——通説と新説の違い 7月30日(太陽暦では8月23日頃)、強風が吹き始め夜には暴風に発達した。通説では、この台風がほぼすべての船を沈め、戦死者・溺死者あわせて10万人以上が失われ壊滅したとされる。日本軍は残存する敵を掃討して勝利したとされ、貴族の日記にも「上も下もお喜びで大化している」「神の力がはっきり示された」という記録が残っている。仏教界では叡尊への感謝が届けられ、神仏のご加護として受け止められた。 服部先生の新説はこれと異なる。江南軍は高島(長崎県)付近で台風に直撃されほぼ壊滅したが、志賀島に陣取っていた東路軍は比較的温存されていた。合流前に台風に遭った江南軍はそもそも無謀な作戦だったとも言え、船団の大半がたどり着く前に嵐に会った可能性が高い。元・高麗の記録にも、日本の記録にも、また海底から新たに発見された沈没船からも台風の事実は裏付けられている。 ## 台風後も続いた戦いと竹崎季長の一幕 台風から4日後(太陽暦の8月5日頃)、日本軍は博多湾で掃討戦を展開し、さらに高島の残存軍も撃破した。新説に従えば、この2度の激戦の末に弘安の役は日本の勝利で終わったことになる。台風が決定打だったことは通説・新説ともに認めるが、「台風だけで勝ったわけではない」というのが現代の研究の到達点だ。 この戦いのエピソードとして残るのが、周来絵詞を描かせた竹崎季長の行動だ。台風直後、東国武士から「范文虎が逃げ出している」という情報が入ると、季長はすぐ追撃を申し出た。しかし司令官の少弐は生の松原の本陣ではなく8キロ東の大宰府家御所にいる。急いで伝令に走ろうとしたとき、季長は自分の船が博多湾に置いてあることに気づいた——乗っていく船がない、という何とも間の抜けた状況に追い込まれたところで、この回は終わる。 ## この回の要点 - 元寇防塁と博多湾の浅瀬という地の利が、モンゴル軍の一気上陸を阻んで2ヶ月の攻防を可能にした。事前準備が実際に機能した稀有な例。 - 台風(神風)は決定打だったが、武士団の奮戦・敵軍の内部対立・海上遠征の構造的困難という複数要因の組み合わせで勝敗が決まった。 - モンゴル帝国の構造的弱点は「海軍力の脆弱さ」にあり、多民族混成の海上遠征は統率と補給の両面で限界をさらした。