# 【67-5】防ぎようなくない?城壁も補給路もぶち抜くモンゴル長期包囲戦【COTEN RADIO モンゴル帝国襲来編5】 - Show: 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO) - Published: 2026-09-28 - Canonical: https://podc.club/episode/1450522865_458b63057730.html - Audio: https://anchor.fm/s/8c2088c/podcast/play/125388317/https%3A%2F%2Fd3ctxlq1ktw2nl.cloudfront.net%2Fstaging%2F2026-8-8%2F9fa22073-1cdc-ed13-5c4e-11e39878080f.mp3 - Source: この記事は、配信音声の冒頭30分ぶんを機械で文字起こしし、それをもとに編集したものです。番組の公式な要約ではありません。 フビライ率いるモンゴル軍が南宋の要衝・襄陽と樊城を数十キロの囲壁で封鎖した長期包囲戦、そしてイスラーム由来の投石機「回回砲」で城壁を突破した顛末を詳述する。さらに元の建国と全長2500キロの大運河整備、高麗の三別抄反乱と日本への救援要請、モンゴルの使節を三度無視し続けた鎌倉幕府の対応までを一気に描く。 ## この回が答えていること ### モンゴル軍はなぜ城を力攻めせず、数十キロにわたる囲壁で封鎖する戦術をとったのか? 高麗などから徴用した土木技術者の存在により、真正面からの力攻めではなく数十キロにわたる囲壁と堀で補給路を完全に遮断する長期封鎖戦略を選択し、前例のない規模の土木作戦を実行できたため。 ### 回回砲とはどのような兵器で、どうして南宋の堅固な城壁を突破できたのか? 回回砲はアッバース朝征服時に導入したイスラーム由来の投石機で、釣り竿状の腕の遠心力で約90キログラムの石を飛ばし、命中すると城壁に2メートルもの大穴を開ける威力を持っていたため突破できた。 ### フビライはなぜ国号を「元」に改め、大都と大運河を整備したのか? 南宋攻略の過程で中国王朝としての新首都「大都」を建設するため国号を「元」に改め、大都と江南の物資を結ぶために1700キロの大運河を新たに掘削して大都が首都として機能する物流基盤を整えた。 ### 高麗の三別抄は日本にどのような内容の手紙を送り、日本はどう反応したか? 三別抄は「モンゴルが必ず日本を攻めるので、自分たちが食い止めるから米と救援の軍を送ってほしい」という趣旨の手紙を送ったが、日本は直前まで高麗がモンゴルの使者だった経緯に混乱し、結局返答しないまま終わった。 ### モンゴルの使節に対して鎌倉幕府が返書を出さなかった背景に、どのような国内事情があったか? 幕府は「どうせ戦うのだから返事は無用」として返書を止めた一方、国内では御家人の土地を奪う悪党が横行し権力者自身も結びつき、九州の御家人は関東より統治が不安定で命令が届かず、内政の乱れへの対応にも迫られていた。 ## 本文 ## 攻める側が壁を作る——襄陽・樊城の長期封鎖戦 フビライ率いるモンゴル軍は、長江水系の軍事・交通の要衝である南宋の2大都市・襄陽と樊城の攻略に際し、真正面からの力攻めではなく封鎖戦術を選んだ。南側の山地を基点に数十キロにわたる囲壁と堀を構築し、両都市への補給路を完全に遮断したのだ。城壁は本来守る側が作るものだが、モンゴル軍は攻める側として外側に壁を巡らせるという前例のない規模の土木作戦を実行した。征服した高麗などから土木技術者を徴用できたことが、こうした長期戦略を可能にした。 南宋はこれに対し全国力を投じた10万の援軍を差し向けたが、モンゴル側も情報戦で動きを察知して同等の兵力で迎え撃ち、援軍は敗北。将軍も捕縛されてしまう。それでも両都市はそこから2年間持ちこたえた。 ## 回回砲——城壁に2メートルの穴を開ける決定打 膠着を破ったのが、アッバース朝征服時に技術導入したイスラーム由来の投石機「回回砲(フイフイパオ)」だった。釣り竿のような腕の遠心力で約90キログラムの石を遠方へ飛ばし、命中すると城壁に2メートルもの大穴を開けるという威力を持つ。まず樊城にモンゴル軍が突入して陥落させ、次にその市内に回回砲を持ち込んで今度は襄陽へ4か月間撃ち続けた。防御施設が次々と吹き飛ばされ、市民は恐怖に陥り、ついに襄陽も陥落した。これ以降、南宋はまともな反撃ができない状態に追い込まれた。 ## 元の建国と大都・大運河の整備 南宋攻略の過程でフビライは国号を「元」に改め、中国王朝として新たな首都「大都(ダードゥ)」を建設した。現在の北京にあたるこの都市と江南の物資を結ぶために、1700キロの大運河を新たに掘削。既存区間と合わせると全長2500キロ——北海道から鹿児島に相当する——という規模の水路を30年で完成させた。この大運河を通じて年間300万石の米が大都に運ばれ、北京が中国の首都として機能するための物流基盤が整えられた。 ## 高麗の三別抄反乱と日本への救援要請 高麗では、武家政権の精鋭特殊部隊「三別抄」がモンゴル支配への従属に反発して反乱を起こした。彼らは「モンゴルが必ず日本を攻めるだろう。自分たちがここで食い止めるから米と救援の軍を送ってほしい」という趣旨の手紙を日本に送った。しかし日本側は「直前まで高麗はモンゴルの使者として来ていたのに、なぜ今度は戦っているのか」と混乱し、結局返答しないまま終わった。三別抄の反乱はモンゴル・高麗連合軍に鎮圧され、日本の「うん?」という反応は何も変えなかった。 ## モンゴルの使節を三度無視する幕府と乱れた国内体制 モンゴルはこの間も繰り返し使節を日本に派遣した。3度目の使節・趙良弼は100名の随員を連れて博多に上陸し、直接国書を届けようとした。朝廷が返書を出す方向で議論を始めたところ、幕府が「どうせ戦うのだから返事は無用」と止めてしまう。趙良弼は天皇にも国王にも会えずに帰国し、日本はモンゴルを三度無視した国となった。 一方、国内では御家人の土地を実力で奪う「悪党」が横行していた。港を奪って「俺の港」と主張するような実力行使が常態化し、幕府の御家人や権力者自身も悪党と結びついていた。加えて九州の御家人は関東に比べてガバナンスが著しく不安定で、本人が遠隔地にいるため命令が届かない者も多かった。幕府はモンゴル来襲に備えながら、この内政の乱れの整備も同時に迫られていた。 ## この回の要点 - モンゴルは数十キロの囲壁で南宋の2大都市を封鎖し、イスラーム由来の回回砲で城壁を突破するという土木×兵器の複合戦略で長期包囲戦を制した - フビライは元を建国後、全長2500キロの大運河を30年で整備し年間300万石を輸送する物流基盤を作り上げ、北京を首都として機能させた - 日本はモンゴルの使節を三度無視した上、国内では悪党問題と九州のガバナンス不足が深刻で、来るべき元寇への備えは極めて不十分な状態だった