# <特別編>あの日をたどろう!モンゴル襲来の最前線・元寇防塁へ - Show: 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO) - Published: 2026-10-12 - Canonical: https://podc.club/episode/1450522865_0634113ef3de.html - Audio: https://anchor.fm/s/8c2088c/podcast/play/125575523/https%3A%2F%2Fd3ctxlq1ktw2nl.cloudfront.net%2Fstaging%2F2026-8-11%2F431673419-44100-2-77698f280faa4.mp3 - Source: この記事は、配信音声の冒頭30分ぶんを機械で文字起こしし、それをもとに編集したものです。番組の公式な要約ではありません。 コテンラジオ史上初のロケ収録として、パーソナリティ2人が福岡市西区今津の元寇防塁を訪問した特別編。文永の役と弘安の役の本編エピソードのあいだに挟まれた現地レポートで、モンゴル軍が実際に上陸した海岸線を歩きながら、防塁の構造・規模・建設分担の実態を体感する30分。 ## この回が答えていること ### 元寇防塁はなぜ、どんな目的で造られたのか? 文永の役(第1回モンゴル来襲)でモンゴル騎馬兵の強さを思い知った鎌倉幕府が、弘安の役(第2回)に備えて海岸線に築いた石積みの防壁。モンゴル軍の主力である騎馬が越えられない高さ2〜3mに設定され、守備側の武士が上部から弓矢で応戦できる構造になっていた。 ### 防塁の高さ・幅・延長はどのくらいで、現在はどんな状態か? 本来の高さは2〜3mだが、600年以上の砂の堆積で現在は頭頂部だけが地表に出ている。今津区間だけで延長約3km、博多湾岸全体では約20kmにわたって連続していた。幅も馬が飛び越えられない広さがあり、今回は福岡市の特別許可で通常非公開の区間にも入って断面を観察した。 ### 防塁の建設はどの地域の武士がどのように分担したのか? 九州各地の御家人に区間ごとに割り当てられた。今津区間は大隅・日向、箱崎周辺は薩摩、生の松原は肥後、明石の浜は肥前の武士が担当。石材は加工岩と玄武岩を交互に積んでおり、担当が変わるたびに石の大きさや積み方の「癖」が変わることが現地で確認できた。 ### モンゴル軍はどのようにして博多湾岸へ上陸しようとしたのか? 大型船は浅瀬のため海岸まで接岸できず、沖に停泊して小船に乗り換えたうえでピストン輸送で上陸するしかなかった。文永の役では約3万人・900艘規模とされるが、一度に大軍を揚陸することは構造上できなかった。 ### 防塁は実際に戦局に影響を与えたのか? 現地担当者の話によれば、防塁のおかげでモンゴル軍はほとんど上陸できなかったとされる。馬を海岸で止めるだけでなく、浜に着いた兵に上から弓矢を浴びせられる地形的優位も生み出し、守備側に圧倒的に有利な戦況をつくった。 ## 本文 ## 毘沙門山から望む、モンゴルが来た海 コテンラジオ初のロケ収録は、福岡市西区今津の毘沙門山からスタートした。車で来られない道を20分かけて登り、山頂の制眼寺(奥の院)から博多湾を俯瞰する。沖には能古島が見え、海岸線沿いの木々の隙間に元寇防塁の稜線が確認できる。「こんなのどかな場所から攻めてきたとは思えない」という感想が漏れるが、文永の役では約3万人のモンゴル兵がこの海に現れたことを確認する。 モンゴル軍の大型船は博多湾の浅瀬ゆえ海岸まで接岸できず、沖に停泊して小船に乗り換え、ピストン輸送で上陸するしかなかった。一気に大軍を揚陸できない構造が、のちに防塁と組み合わさって守備側に有利に働く。文永の役では900艘の船が来たとも伝わる。 ## 地面に埋もれた石壁の正体 山を下りて海岸沿いの元寇防塁跡へ向かう。現在は本来の高さ2〜3mのうち上部だけが地表に出ており、残りは600年分の砂に埋もれている。「地面がもっと低かった当時は、ここまで高い壁に見えた」と、事前に福岡市担当者から聞いていた一人が補足する。 今津区間だけで延長約3km、博多湾岸全体では約20kmにわたる。福岡市の特別許可を得て通常非公開の区間にも入り、横から断面を確認した。馬が飛び越えられない幅と高さがあり、防塁の上に立った鎌倉武士が海側から攻めてくる敵に弓矢を浴びせる構造になっていた。担当者によれば、この防塁のおかげでモンゴル軍はほとんど上陸できなかったという。 ## 担当区間ごとに変わる「石の癖」 防塁は九州各地の御家人に区間ごとに割り当てられた。現地の案内板には、今津区間が大隅・日向、箱崎周辺が薩摩、生の松原が肥後、明石の浜が肥前の武士の担当と記されていた。石材は加工岩と玄武岩を交互に積んでいる記録もある。なお、箱崎では約10年前のキャンパス跡地の発掘調査でも防塁が見つかっている。 実際に約3kmを歩くと、区間の境目で石の大きさや積み方がはっきり変わる。大きなゴツゴツした石を豪快に積んだ区間の隣に、小さな石を丁寧に並べた繊細な区間が続く。「ディレクターのセンスの違い」と笑いながら、担当した武士集団の規模や財力が反映されたのだろうという結論に落ち着いた。担当区間が短く石が細かい箇所は、あまり豊かでない御家人が割り当てられたと推測された。なお、この工事に対する褒賞は基本的になく、既存の「御恩」への奉公として命じられたものだった。 ## 万里の長城との差と、九州御家人の切実な危機感 壁の完成度は万里の長城には遠く及ばない。高さが揃っておらず、真っ直ぐでもなく、石の種類もランダムに見える。「機能さえ果たせれば見た目はどうでもいい」という緊急工事の証だと2人は読んだ。戦国時代以降に発展する「石垣」の技術と比べても、明らかに荒削りだ。 それでもこれだけの規模を短期間で作り上げられた背景には、九州御家人たちの切実な危機感がある。鎌倉や京都の中央権力者は現地を体験していないが、文永の役で実際に馬に蹂躙された九州の御家人にとって、弘安の役に備えた防塁建設は自分たちの命がかかった防衛工事だった。「一番危機感が強かったのは九州の御家人だと思う」という言葉で、2人の現地視察は締めくくられた。 ## この回の要点 - 元寇防塁は文永の役後に弘安の役に備えて急造された全長約20kmの海岸防壁で、モンゴル騎馬兵を物理的に止めることを主目的とした - 防塁は九州各地の御家人が区間ごとに分担して建設し、担当者が変わるたびに石の大きさや積み方の「癖」が変わることが現在でも確認できる - 褒賞なしの緊急奉公として作られたにもかかわらず防塁は高い防御効果を発揮し、弘安の役でモンゴル軍の大規模上陸を阻止したとされる