# 第701回「傍流論」 - Show: 東京ポッド許可局 - Published: 2026-10-16 - Canonical: https://podc.club/episode/1123725677_2eea04cb048b.html - Audio: https://pdst.fm/e/pscrb.fm/rss/p/traffic.megaphone.fm/TBS9545745784.mp3 - Source: この記事は、配信音声の冒頭30分ぶんを機械で文字起こしし、それをもとに編集したものです。番組の公式な要約ではありません。 サンキュータツオが博多華丸・大吉の大吉のポッドキャストに初出演したことを起点に、「傍流(ぼうりゅう)」をテーマに語り合う回。NHK朝の顔として君臨する大吉が実は傍流的な経歴を積み重ねてきたと分析しつつ、マキタスポーツ・サンキュータツオ・プチ鹿島の三人が「自分たちがお笑いの傍流にいると気づいた瞬間」と「90年代東京でどうやって芸人の入り口を探したか」をそれぞれ語る。 ## この回が答えていること ### 大吉(博多華丸・大吉)はなぜ傍流的な感覚を持っているのか? 花丸がR1優勝・コンビでザ・マンザイ優勝と結果を出しているが、大吉は福岡吉本一期生で先行例がなく、M1は年齢・結成年数制限で出られず、ボキャブラ天国にも乗れなかった。本人たちの解釈では「ラジカル」という番組で初めて全国区になったとのことで、主流ルートとは異なる積み上げをしてきた人物だった。 ### サンキュータツオと大吉が初めて二人で話して意気投合できた理由は何か? タツオが2012年頃に書いた連載「芸人の因数分解」を大吉が読んでいたことが共通言語となり話が弾んだ。また大吉は、プチ鹿島やサンキュータツオという固有名詞を表の番組でちゃんと口にする珍しい人物でもあり、「引用元をはっきりする誠実さ」が傍流の三人と大吉を結びつけたと語られた。 ### 三人はそれぞれどのようにして芸人の世界に入ったのか? マキタスポーツは太田プロに電話したり浅草周辺のライブに潜り込もうとしたりした末に吉本入り。サンキュータツオは大学の学籍がなくなる2008年に腹を決めてオフィス北野に入った。プチ鹿島は90年代に養成所の存在自体を「詐欺的なものに違いない」と思っており、選択肢がほぼなかったと語った。 ### 自分たちが「傍流」であることにいつ、どのように気づいたのか? マキタスポーツはテレビに出始めてから「向こうの目線で、自分は全然違う人と見られている」と気づいた。タツオはコンビ解散後にポッドキャストを始めM1論を語り始めた瞬間に「自分は部外者として語る側」と腹をくくったと話した。プチ鹿島はボキャブラ天国から2000年代の稽古場移転の頃にじわじわ感じたと振り返った。 ### 90年代から2000年代の東京お笑い界はどんな構造だったのか? 太田プロ・吉本・堀プロなど事務所ルートや浅草の劇場ルートなど入り口が複数あったが整備されておらず、養成所に「お金を払って笑いを学ぶ」こと自体が異様に見えた時代。2000年代にM1が始まって以降、吉本主導で選抜システムが整備されていき、旧来の混沌とした東京の笑い地図は「年表に載らない」まま忘れられていくと三人は語った。 ## 本文 ## タツオ、大吉ポッドキャストにようやく出演——「玉音放送」と騒いだ理由 サンキュータツオが博多華丸・大吉の大吉のポッドキャストに出演した。マキタスポーツは「大吉先生の家族と一緒に正座して聞いた」「玉音放送だった」と祝福する。三人は以前、許可局のイベントに大吉をゲストで招いたことがあるが、タツオと大吉が二人きりで喋るのは今回が初めてで、「ラストピース」だったという。 話が弾んだ理由として挙げられたのは「共通言語」の存在だ。タツオが2012年頃に書いた連載「芸人の因数分解」——漫才師の台本を文体論で解剖する試み——を大吉が読んでいた。また大吉は、プチ鹿島やサンキュータツオという名前を表の番組でわざわざ口にする珍しい人物でもある。「引用元を別にこの間知り合いの芸人と言ってしまえばいい場面でも、ちゃんと名前を出してくれる」——この誠実さが傍流の三人と大吉をつなぐ接点だと語られた。 ## 「ど真ん中」に見える大吉の、傍流的な経歴 花丸がR1優勝、コンビでザ・マンザイ優勝を果たし、NHKの朝の顔を10年以上務める大吉は、外から見れば完全な「ど真ん中」だ。ところが話を聞くと傍流的な要素が重なる。福岡吉本の一期生で売れている先輩の前例がなく、「売れるとはどういうことか」をイメージできないままスタートした。M1グランプリが始まったときはすでに年齢制限・結成年数制限を超えていて出られず、ボキャブラ天国のタイミングにも乗れなかった。全国区になった経緯を本人たちは「ラジカル」という番組がきっかけと語っており、三人も「確かにゴリゴリのネタ番組で出てきたという印象はなかった」と振り返った。今夜バトルからザ・マンザイという流れで全国区になった、というのが三人の整理だ。 ## 90年代東京——芸人の「なり方」が見えなかった時代 三人がお笑いを志した1990年代の東京は、入り口が見えにくかった。養成所はあったが、「お金を払って笑いを学ぶ」こと自体が信じられなかったと全員が口をそろえる。マキタスポーツ(1970年生まれ)は「詐欺的なものに違いない」と思っていたといい、タツオ(1976年生まれ)も「僕ぐらいまでの世代は養成所が珍しかった」と補足した。ビートたけしが修行したフランス座のロマンがまだ染み付いており、「ドロップアウトして浅草に流れ着く」という物語の方がリアルに感じられたという。 マキタスポーツはビートたけし・高田文夫という東京の笑いへの憧れが強く、「23歳の頃に太田プロにいきなり電話してマジで入れてくれと言ったことがある」と明かした。浅草周辺のライブにも潜り込もうとしたが、そのまま弟子入りの流れになりそうで足が止まった。最終的に吉本に入り「意外と文系で心地よかった」。タツオはコンビ活動中はM1を目指していたが、解散と同時に2008年にオフィス北野入りを決断した。「大学の学籍がなくなるから、もう戻れない」という崖っぷちでの腹決めだったと語った。 ## 「傍流」に気づいた瞬間と、ポッドキャストという転換点 マキタスポーツが自分のずれを自覚したのはテレビに出始めてから。「向こうの目線で気づいた——なんとなく昔から同じ領域にいたような商品として認識されるけど、ど真ん中を歩んできた人たちは俺のことを全然違う人と思っていた」と振り返る。 タツオはポッドキャストを始めてM1論を語り始めた瞬間に「自分はもう部外者として語る側でいい」と腹をくくった。三人は当時誰も見向きもしていなかったポッドキャストというシステムに飛びつき、東京ポッド許可局独自の「会話の仕様」が生まれた。それがバラエティに出た際に「全然違うルールで戦っている」という印象を与える一因になったという。 「年表に載らない」という表現で三人が嘆くのは、90年代から2000年代の混沌とした東京お笑い地図の忘れられ方だ。成子坂や浅草キッドの流れ、旧ホリプロ系からのサンドウィッチマンのような例も、今は見えにくくなっている。ナイツのラジオ番組で最近の売れっ子若手と共演するたびに「この人、自分のことを知っているのか」と緊張する——そのエピソードが笑いとともに語られ、傍流であることの現在進行形のリアルを締めくくった。 ## この回の要点 - 「ど真ん中」に見える大吉も、M1出場不可・ボキャブラ乗り遅れなど傍流的経歴を持ち、分析的なお笑い観と固有名詞を表で言う誠実さが許可局三人との共通言語になった。 - 90年代東京はお笑い養成所の存在すら信じられず、芸人の「なり方」が整備されていなかった。三人それぞれが迷走した入り口エピソードを持つ。 - 傍流であることへの自覚はテレビ出演後やコンビ解散後という後付けで訪れ、ポッドキャストが自分たちの軸を確立する転換点となった。